迷  走  録


一旦自分の口から飛び出してしまったコトバには責任を持たなければならない。それは既に社会に向けて発信されてしまったのである。

ましてそれが確実な記録として残る「書く」ということにおいてはなおのことである。

自分に確たる思想があるわけではないし、生き方の方向が定まっているわけでもない。だからコトバを発することは恐いし、書くことはもっと恐い。

自身で振り返ってみても矛盾に満ち満ちているので・・・。

しかし、だからといって考えることを止めるわけにはいかない。瞑想することを放棄することは出来ない。

たとえ、迷走でも良い。口から発することによって、書くことによって、多少なりとも自らを律することが出来るのだとすれば。

自らを律する意味でも「毎日更新努力」を宣言して、本コンテンツを設置した。

2000/12 2001/02 2001/03 2001/04 2001/05 2001/06 2001/07 2001/08 2001/09 2001/10 2001/11 2001/12

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010115 カレーそば

昼食はよく利用する社のすぐそばの蕎麦屋。いつものことながら混んでいるため相席である。

五人掛けの席に座って「カレーそば」をオーダー。
ふと見ると、残りの四人の先客はすでに食いだしているが、三人がそばかうどんかは別にしてカレー。
残りの一人の裕福なオヤジ風が鍋焼きうどんをフーフーしながら食っている。

前の四人席はと見ると、一人がカレーで二人がかき玉うどん。も一人はまだ来ていないので分からない。

四十人席は満席で次々とオーダーの声が入るが、八割方がカレーかかき玉で時々鍋焼き。
店内は湯気がもうもうと立ち込めている。

食い終わってから伝票を持って全体を視察しながらレジに向かった。
驚いたことに、もり・ざるを食っている人間が一人もいなかった。

小生もちょくちょくオーダーするのだが、このシーズンでも必ず五人や六人はもりそばかざるそばを食っている奴がいるはずなのだ。
それが皆無とは・・・。

優秀なリサーチャーの目というのはこういう場所でも光っているのだ。

本日の東京は、天気晴朗なれど寒波高し。

イャア、寒かった。



010114 パルだ〜

我輩はパルである。他のコンテンツには再三登場しているが、ここにこういう形で登場するのは始めてである。

ジジイが 「折角デジカメを買ったのに、HP上で活躍の場がないし、これ以上コンテンツを増やすと収集がつかん」

とボヤイテいるので、 「たまには目先を代えてこういうのもどうだ」と提案して強引に登場したのだ。

ご覧のように極めてハンサムである。しかし喧伝されているため皆様すでにご存知のように、性格はメチャ悪い。

しかし、自己弁護させて頂く。 人じゃなかった犬があお向けになっていい気持ちになって寝ている夜中の二時か

三時。 いきなりチンチン目掛けて輪ゴムが飛んでくるのだ。 「ギヤオッ」と叫んで飛び起きると「おすわり・お手ッ」

と命令が飛んでくる。寝ぼけながらのろのろと命令を聞くとやっと寝かせてもらえるのだ。

朝、ジジイが出かける時は必ず玄関に呼び出される。そして「おすわり・お手ッ」を十往復強制されるのだ。

腹にすえかねて噛み付くとヒッパタカレルのだ。性格が悪くなって当たり前と思いませんか、皆さん。

全く、性格のゆがんだジジイである。



010113 省庁再編

 省庁が大幅に統合・再編された。「真に国民の皆様の生活の便宜に供するために」とのことだ。
浅学非才にして迂闊にも知らなかった。ついこの間まで延々と存在していた従来の省庁というのは「国民のため」のものではなかったのだ。
知らなかった。汗顔の至りである。

 それはさておき、省庁統合・再編の効果ということがかしましく言われている。
しかし、ここで言われている「効果」とは一体なにを指してのことなのだろうか。

 当然第一は「景気の回復」ということであろうが、もちろんそれだけではない筈である。
「事務処理の迅速化」、関連して「たらいまわし行政の減少」。「風通し・視界の広がりによるチェック・監視機構の強化」、
「リストラ危機意識の芽生えによるお役人様の頭が高い威張り病の治癒」等々も、われわれ国民が期待する効果には違いない。

 しかしあまり広げても論旨が散逸するので、ここでは「景気回復効果」に絞って考えてみよう。
 例えば半年後に株価が上昇機運に転じたとすれば「ほれみろ。省庁統合の効果なのだ」というのだろうか。
他のもろもろの努力やファクターは全て無視されて省庁統合の効果ということで一人占めにされるのだろうか。

 逆に半年たっても短観指標が一向に好転しなかったとしたら「省庁統合の効果はありませんでした」と反省・告白してくれるのだろうか。

 もちろん難しい注文であることは十分に分かっている。
会社だって、否、個人だって、未来を見通して予測したり宣言したりすることは出来ない。
不確定のことを、不確定のままに宣言する位なら、ダンマリを決め込んだ方がマシということもあるかもしれない。

 でもいやしくも国家である。国民の最高頭脳の集合体の筈である。
しかもあらゆる角度からのあらゆる試算が行われての統合・再編の筈である。

 「再編しました」だけで済ませる手はないと思う。試算した資料を分かりやすく、詳しく情報公開して欲しい。
その上で何のために、どういう目標をもって、具体的にどういう指針で、いつまでに、どういう行動をするのか。

 われわれに分かりやすく、詳しく説明をして欲しい。
それで景気回復が出来なかったとしても、出来なかった要因を分析して提示してくれればある程度は納得が行くというものだ。

 省庁の統合・再編は単にニュースとなって流れただけで、国民とは関係のない世界で、頭上はるかかなたを流れて去って行きそうな雰囲気である。

 ところで突然現実的な話をするが、通貨に刻印されている「大蔵省印刷局」の字はどうなるのだろう?
まさかある日突然、「一切無効」なんていうことにはならないのだろうな。

 ま、そうなればなったで、国民全員がスッテンテンになるわけだから、貧乏人呼ばわりをされなくて済むのだが・・・。



010112瞑想

 昨年末、先輩が自費出版したという本を郵送して頂いた。『釈迦のメッセージを読む』。

長年放送記者として活躍された先輩(以下著者)が、ライフワークとして纏めた本で、
釈迦の残した言葉に対する膨大な文献からの解釈の引用並びに、それに対する著者自身の解釈・意見を述べた本である。

別に宗教の薦めとか、釈迦の伝記とか言った本ではなく、サブタイトルに「原始仏教哲学ノート」とあるように、
現代に通じる釈迦のことばを少しでも理解する努力をした上で、
今の、明日からのわれわれの生き方を一人ひとりが考えようではないか、という呼びかけの本である。

 正月休みにゆっくり読もうと思っていたが、歯ごたえがあり過ぎてとてもアルコールの入った頭で理解できるものではないし、
電車の中で読める本でもない。
結局読了が、寄贈して頂いてから半月以上を経て、ということになってしまった。

 その中に「瞑想とは何か」の一節があったが、小生のこのコラムが軽々しくも「瞑想録」をもじって「迷走録」。
著者は多分小生のこのコラムのタイトルを苦々しい思いで見ているに違いない。

「瞑想」は〔新明解国語辞典〕によれば「目を閉じて、雑念・妄念を退けて、深く考えること」。

しかし、こんな生易しいものではないらしい。そもそも「瞑想」とは釈迦が始めた「修行して修得するもの」のようだ。

そして著者自身も、インドの瞑想道場で十日間の修業をされたそうだが、
テレビ・新聞・電話はいうに及ばず、外界との接触を一切遮断された中で、
食事は一日にトースト一枚、果物一切れ、ジュースにミルクに紅茶だけ。

毎朝五時に起床で一日四回、二時間ずつ「瞑想」の修行をされたそうだ。
そしてその修行内容についても詳しく触れられているが、まさしく苦行の世界である。

軽々しくも「瞑想録」、それももじって「迷走録」などというコトバを使ってしまった。
「めくら蛇におじず」(うん、これも軽々しく使ってはいけない差別語か)とはまさしくこのことだろうが、今さらタイトル変更というのも・・・。

先輩。もしこれをお読みになっているとすれば、軽挙妄動のバカな後輩がまた・・・と思って、お許しのほどを。



010111地下鉄

 今日も先月開通の大江戸線を利用した。開通直後にも乗ったことがあるので知ってはいたが、とにかく滅茶苦茶深い。
乗車駅では地獄の底まで真逆さまに滑落していくような気分になるが、大変なのは下車駅だ。
エスカレータがあるからいいようなものの、もし故障でもされたらこれはもう、完全に登山である。
階段の踊場に「KIOSK茶屋」でも置いて、せめて団子くらいは販売してくれないと遭難者が出ても知らないぞ。

まあ網の目のように走っている東京の地下鉄。新線になるほど深くなるのは当然だろう。

それで前々から話していることを思い出したわけだが、地下鉄銀座線の渋谷駅。地下鉄のくせに駅のホームは三階。JRの駅より上にあるのだ。
日本最古の地下鉄だから、効率よくなるべく浅い所を一直線に掘り進んだのだろう。
渋谷にぶつかったら崖の中腹に飛び出してしまったというわけだ。
なるほど、渋谷駅は道玄坂と宮益坂のどん底に立地している。
渋谷というのが相当深い谷だったのだろうということは、今の地形をみても瞭然というわけだ。

やはり古い地下鉄の丸の内線。池袋から行くとまず茗荷谷で地上に飛び出してしまう。
そして一瞬ではあるがお茶の水で飛び出して、四谷に至っては飛び上がってるという感じである。
荻窪はぎりぎりガマンで地下に潜っているが、中野坂上はやたらに深い。

こうしてみると、関東平野とはいっても決してまっ平なわけではないし、昔の地名(地形)が今に生きていることがよく分かる。

そして昔の地名といえば、いろいろ議論は呼んだが、合理化の名のもとに随分と壊されて来てしまった。
小生のオフィスのある昔の花園町も現在は新宿一丁目。花園の名前も「花園医院」という物凄く古い医院に名を留めるのみだ。
そういえば今はオフィス街に変身しているが小生の若い頃は青線地帯だった。
さらに歴史を遡ると遊女がいた地域だから花園なのだろうか?一度調べてみる必要がある。

とにかく昔の地名には何か意味があって、名が体を表わしていた。それがどんどんと記号化されていく昨今である。
我々の業種にとってはこれがまた非常に便利なことであるから、困るのだ。




010110失言

どこかの国の総理大臣の話ではないから、まあそうイヤな顔をしないで読んで欲しい。

わが居室は狭い。一応洋室であるが4畳あるかないかだろう。でもその居室は実に快適なのだ。
部屋の真中をデッキチェアが占拠している。そこに寝そべって前に置いてある小机に足を乗せて転寝をするのは至福の一時である。
その代わり歩行可能なスペースは、そのデッキチェア周りの蟹の横歩きだけである。

 デッキチェアの低い視線から左を見ると、本棚がそそり立っている。
そこにはハードボイルドがビッシリと並んでいて、少しだけ開いたスペースには常にウィスキーのボトルとピー缶が並んでいる。
右側には特製のビデオラックがそそり立っていて、そこには映画が収録されて千本に近い8ミリカセットが整理されて番号順に格納されている。
寝そべったままの姿勢で右にも左にも手が届く。

目の前2メートルの所には、この狭い部屋には不似合いな、映画鑑賞のための大画面テレビが鎮座している。
そしてその横には、机としての機能は全く失った机があり、ノートパソとスキャナとプリンタが乗っている。

唯一の欠点は後に手を伸ばすと押し入れの扉に手をぶつけ、しょっちゅう中指の皮を擦り剥くことだが、これは狭いのだから仕方がない。
とにかくこの一人だけの空間と一人だけの時間がこよなく好きなのだ。だからリビングにいるのは食事の時だけ。

「一応家庭なんだからたまにはこっちでゆっくりしたらどうなのよ」と猛妻に言われる。
でも食事が済んだらそそくさと自室に立てこもるのだ。

そして大失言をしてしまったのはつい先日。
正月位はということで、食事が終わってしばらくリビングでテレビ見物を付き合った。
もういいだろうということで「じゃあオレ帰る」といって自室に引揚げ、デッキチェアに寝そべった途端である。

猛然とドアが開き、猛妻が文字通り鬼のような顔をして立っていた。
「あんたイマなんて言った。“帰る”ってどういうことよ!」。

いや、確かに・・・。失言でございました。



010109そば屋

「信州内藤流手打蕎麦、真田六文銭陣中見舞」。
通勤コースはいくつかありその日の気まぐれであるが、そのコースの中のひとつにこの看板を掲げたそば屋がある。

 小生はそばが好きである。「信州」と聞いただけで、美味そうなそばの香りが漂ってくる。
でもこのそば屋はただの信州ではないのだ。内藤流手打蕎麦なのだ。そば好きじゃなくてもグッと来るではないか。
しかも、しかもである。その後に「真田六文銭陣中見舞」というサブタイトルがついているのだ。

 マンションの1Fというか、階段を五〜六段下りた半地下にあるいかめしい造りのそば屋である。
玄関前には「真田六文銭」の幟が四本、はたはたと風にはためいているのだ。

 この店のそばを食わずしてそばを語るわけにはいかないのだ。
階段をサササッと駆け下りて、この造りにしては珍しく自動でないドアをガラリと開ける。
それだけで胸がトキメクのだ。「御免!頼もう!」と大声を発したくなるのだ。

 席に座った。たったいま、抜けた腰が治ったというような婆さんが出てきて「いらっひゃいまひぇ」と迎えてくれる。
「いらっしゃいませ」ではなく「いらっひゃいまひぇ」なのだ。
「あ〜あ、来なくてもよいのに客が入ってきてしまった」というような顔をしている。

 しかしこちらは気合が入っている。臍下丹田に力を込めて、おごそかに「もりそばっ」とオーダーした。
かれこれ三〜四年前のことである。その後二度と足を踏み入れてないこのそば屋をなぜ今ごろ思い出したか。

 先日の大晦日、例によって年越しそばを取った。
約束の時間に一時間も遅れて出前されたそばはこれ以上伸びようがない状態でへろへろになって、ぐにゃっとしたプラスチックの皿に乗って来た。
  三百六十五日のうちで一番そばが不味い日である。
例によって猛妻が「来年は出前でなくてウチで作るからね」と言ってくれた。
今年の大晦日にもまたこのセリフを聞くのだろう。

ということで「不味いそば」をキーワードに突然思い出したわけであるが、
そもそも「信州内藤流手打蕎麦、真田六文銭陣中見舞」なるそばは実在するのだろうか。
一度信州真田を訪れてみたいものだ。



010108 就職難

 休日の日課である水中激歩。雪くらいで休むわけには行かないのだ。行った。ガラガラだった。
 そしてノルマを消化しての帰途、減ってしまった体重を補充すべく焼肉屋に入ってカルビとロースとレバと生ビール。リッチな休日の昼である。

 隣で大学生と思しき二人連れが焼肉ランチを食いながら話していた。
片方はまだ就職が決まっていないらしく、「お前は二つも受かったんだっていうじゃないか。いいなあ。
でも何で実家から通える大宮の方にしないで名古屋の方の会社にしたんだよ。いくら寮があるといったって金がかかるだろう」。

 「だって俺、星野が好きで中日ファンだろ。去年だって何回名古屋ドームに通ったかわからない位だ。新幹線代考えればどっこいだと思うよ」。

 思わず箸に肉をつまんだままの姿勢で立ち上がって「オマエ何考えてんだよ〜っ」と怒鳴りたくなったが、
モ一人の相棒の返事を聞いた途端に箸につまんでいた肉を取り落としてしまった。

 「オッ。やっぱりそうだったのか。実は俺も阪神ファンだろ。
就職ダメだったら当分フリーターと思っているんだけど、フリーターやるなら大阪行くよ」。

 それって或いは今の大学生たちにとってフツーのことなのだろうか。就職は自分の趣味を追求するための便法なのだ。
就職出来ないとしてもそのことを「難」なんて全く考えていないのだ。

 政府やらマスコミやらが、求人率とか求職率とかの統計資料をひねくりまわして、その数字面だけを眺めて、
大昔に使った「就職難」というコトバを再び引っ張り出しただけなのかもしれない。

ご当人達は、就職するもしないも別にどうということはない。自分の好きなこと、やりたいことがどこにあるのか。
そのことに便利な就職先があればよし・・・なければないで無理して就職なんて・・・ということなのかも知れない。

ま、全部が全部とは思わないが、とにかく世の中変わって来ている。
しかもよく考えて見れば、別に、あながち、悪いことでもないし・・・。



010107サンマルク

            先日ここに書いたが(1225)、今日の夕食は「結婚記念日フルコース割引券」を握り締めて「サンマルク」へ。
                            そのフルコースの中身はというと


                     スープ      伊勢海老のスープ

                          オードブル    アトランティックサーモンと山芋のサラダ

            お魚料理     鰈のムニエル白ワインときのこのソース         または
                   スズキのグリル ピリ辛ミックスビーンズソース ポテトガレット添え

                              主  菜     子牛肉のステーキ粒マスタードビネガーソース      または
                              帆立貝のグリルとレンズ豆のソテーバルサミコソース   または
                              牛タンの煮込み グリルした野菜添え


                               デザート     プラマンジェ

                                   コーヒーまたは紅茶

       パ   ン   5種類以上の焼きたてパンがお替わり自由です

さて、小生のチョイスを全て正確に答えた方には同じものをご馳走して差し上げよう。
なんてこといっても、いずれも舌を噛みそうな名前の羅列で、小生自身が正解を知らないのだからダメだ。

 ご存知の方もいるかと思うが、パン屋のチェーン店のようで、何箇所かにあるらしい。お近くにあるとすればオススメである。

 料理は美味いし、雰囲気が良いし、従業員教育が行き届いている。
店の奥でパンを焼いていて、焼きあがると同時に次から次へとウェイトレスが巡回して
「いかがですか?」と運んで来るのだが、このパンがまた実に美味いのだ。

難点をいえば、このパンがあまりにも美味いので、6個食ってしまったために、折角の料理を食いきれずに残してしまったということだろう。

3500円が3000円に割引になっただけだからたいしたことじゃない。
他に誕生日サービスの企画もあるようだから、或いは超満員だった客の全員が割引券を握り締めていたのかも知れない。  

しかし、仕事の関係もあって外食産業はいろいろ観察しているが、目下非常に大変である。
不況の影響をもろに受けている上に、中食産業(弁当・惣菜屋)に大幅に市場を侵食されているのだ。 
勿論、味とサービスが第一義であるが、外食産業にも確実に企画競合の時代が訪れているし、今後ますます拍車がかかるだろう。

美味いものを食いながら、こんな難しいことを考えていたのである。



010106 酸素マスク

 ワープロの時がそうだった。
「俺は紙と鉛筆で立派に仕事をしている。ナンデこんなボタンだらけのもので感電しながら仕事をしなければならないのだ」。

 そしてパソがそうである。
「俺はやっとワープロをマスターしたのだ。マスターしたばかりなのに、なんでパソに切り替えなければならないのだ。
ワープロにだって膨大な機能がついているではないか」。

 やっとパソに馴染んだら、やれ95だ98だ2000だ。電子メールだ、インターネットだ、IT革命だ。

とてもじゃないが頭がついていけないのだ。
ひとつのことをやっと覚えかけたと思ったら、その覚えたことはもはや過去の遺物と化してしまうのだ。

 「助けてくれえ」と叫びたい。われわれ世代にはこの進歩はあまりにも過酷だ。

 しかし、待てしばし・・・。その環境を苛酷だと感じるのは、やはり自助努力が足りないからではないのか。
その環境に拳を振りかざして、傲慢な姿勢で突っ込んで行くからではないのか。

 実際に被ったことがあるわけではないが、例えば酸素マスクを被って、もう少しだけ深く潜ってみよう。
いきなり傲慢な態度で飛び込んだとすれば、そこには多分過酷な環境が待ち受けているだろう。
でも十分な準備をして、謙虚に、静かに潜っていけば、そこには素晴らしい景色が広がっているかも知れないではないか。

ものすごく柔らかく、ものすごく優しく包み込んでくれるかも知れないではないか。
手を添えて、手伝って・助けてくれる人が沢山いるかも知れないではないか。
そしてすばらしい世界が開けているかも知れないではないか。否、そうに違いない。

躊躇する必要はないのだ。謙虚に、静かに、少しだけ潜ってみよう。
そしてその世界の環境に歓迎されたら、またさらに少しだけ深度を深めて行こう。
もう決して若くはないのだから無理をすることはない。自分の能力の限界をわきまえながら、少しだけ。少しずつ。

新しい年が始まった。
今年の終わりには色々な意味で、今よりは少しだけ深みにある場所で、さらなる深みを見つめている自分を見てみたいものだ。




010105 新年会

 忘年会の連チャンが終了と同時に新年会の行列である。
年が変わったからといって、世紀が変わったからといって体内のアルコール分が蒸発するわけではない。

年が跨ったから錯覚に陥るが、これを平常月として考えれば、先週も先々週も宴席の連続だった。
それでもって今週も来週も宴席の連続だ、ということになるのだ。すなわち、一ケ月間、宴席の連続ということになるのだ。

 毎朝二日酔い状態で、思考回路は完全ストップ、五体フラフラで五臓六腑がヨレヨレなのである。
「どうせオマエは365日呑んでいるじゃないか」といわれればそれまでであるが、宴席で呑む場合にはどうしても酒量があがってしまうのだ。

 「まあまあまあまあ一杯どうぞ」が機関銃のように押し寄せてくるのだ。
それでもって忘年会メンバーと新年会メンバーは極力重ならないように努力しているのだが、
どうかするとつい先週、「今年は本当に色々お世話になりました。来年もよろしくお願いします」とご挨拶した方に今週また会ってしまい
「旧年中は本当に色々お世話になりました。本年もよろしくお願いします」とご挨拶して
「まあまあまあまあ一杯どうぞ」ということになるのである。

それでもって、この次その方にお目にかかれるのは今年の忘年会までお預けということがままあるのだ。
これは一体何なのだ、と思う。思うが、ま、いいか。難しく考える必要はない。

どうせ頭は正常回転していないのだ。それでもって酒は美味いのだ。概してではあるが、宴席というのは楽しいのだ。
少なくとも仕事でふらふらヨレヨレ状態になっている時よりは・・・。



010104水中激歩

 さて、本当の意味での新しい年の生活が始まる。今年も公私に渉って頑張らなければならない。
例年一般企業並に休みを取るスポーツジムが「人がのんびりしている時にオープンしていなくてどういう心算だ」
の悪口が聞こえたせいかどうか、今年は感心にも3日から営業を開始した。早速、昨日も今日も水中激歩に出かけてきた。

25メートルプールを40往復で2キロ。ジャスト1時間。月7回平均として14キロ×12ケ月で年間168キロ。
他に通勤を利用して、生活徒歩を除き週平均18キロ×52週で年間936キロ。
すなわち魏志倭人伝ではないが「水行42里、陸行234里」。今年も絶対にこのノルマは達成してやるのだ。
半年ほど前に始まった膝の痛みが鬱陶しいが、階段の上り下りを除けば特に苦痛を感じることもないし、
悪化の兆しもないのでどうということはないだろう。

あれがダメ、これがヨイと神経を尖らせて健康のために生きようとは思わないが、生きている間は健康でいたい。
だから医者から馬の餌ほど買わされている薬も、しょっちゅう忘れている時以外はなるべく真面目に服むようにしているし、運動もするのだ。

その代わりと言っては何だが、コレステロールもガバガバ食うし、少なくとも一日五杯以上のコーヒーは飲むし、
人に迷惑をかけない範囲の量で酒も365日、一日も欠かさず呑むのだ。

わが居室の壁と天井はタバコの脂で茶色に染まっているが、まだまだ色むらがある。
今年の暮れには綺麗な琥珀色に染め上げてやるのだ。

今年も元気に、美味しく、楽しく、頑張るのだ。



010103 正月風景

 正月に晴着姿を見かけなくなってから久しいが、今年の三が日はゼロに等しかったのではないだろうか。
新宿でも、深大寺でも、大泉の町でも。晴着はテレビの中だけの世界になってしまったのだろうか。
いや、もう直ぐ成人式。その時は街に晴着の成人が溢れるだろう。

でもその彼や彼女たちは来年の正月に果たしてその晴着をまた着るのだろうか。

もしそうだとすれば、まさかこの三が日に二十才が皆無ということはなかった筈だから、少しは見かけてもよかったということになるのだが・・・。
かく申す自分も含めて、老若男女を問わずジーパンにダボダボのコートというのが今年の三が日に見かけたファッションだった。

正月が祭りごとというよりは大型連休としての意味合いが強まって来たこと、
そしてもちろん生活慣習や生活意識の変化によるものであろうことには疑義をはさまない。

でもこんなことも考えて見た。

「衣食足って礼節を知る」という。
一昔前までは衣食が足りていなかった。だからせめて正月位は美味いものを食って、綺麗な衣服を着て・・・。
すなわち礼節を知るために、年の始めに当たって心身に気合を入れるために、まず外側から自らにプレッシャーをかけていたのだ。

今は普段から正月以上に美味いものを食っているし、普段から十分にファッショナブルな衣服を着こなしている。
正月だからと言って、敢えて自らにプレッシャーをかけなくても、
自分なりには常に豊かな心を保つことが出来るし、従って改めて礼節を知る必要もない。

考え過ぎ・牽強付会・屁理屈だろうか。あながちそうとも思わないのだが。

何のかんのと言っても、いくら不景気だとはいっても、やはり世の中、
年々確実に懐も心も、必要最小限の欲求を満たせる程度には豊かになって来ているのではないだろうか?



010102 雑煮

 シンプルなのがよろしい。鶏がらの出汁のよく効いた澄まし汁に、皮のへばりついた鶏肉が二〜三切れ、三つ葉をパッパッパ。
柚子の皮をパッ。焦げ目のしっかりついた餅が一個。足りなければお代わりをするから最初から二個入れるな。

色添えに蒲鉾が入っているのはマ、許そう。別にケシゴムみたいな味の蒲鉾なんて入っていなくても良いが・・・。
 最大限譲歩しても蒲鉾まで。他のものは一切入れて欲しくない。そしてこの雑煮は好きだ。正月でなくても所望することがあるくらいだ。

 猛妻の実家は徳島である。猛妻の両親が元気だった頃は、正月の里帰りにたまには付き合っていた。
そしてこの雑煮がひどいのだ。味噌、しかも味噌は味噌でも白味噌がベースなのだ。
そして具はと見ると、森羅万象、八百万の神がぐちゃまぜになって、ごしゃごしゃになって、
これならラッシュアワーの電車の方がよほどマシだと思える状態で、犇きまくっているのだ。

 その味たるやスサマジイのだ。目を瞑って喰ったら、多分ゼンザイにカレーとスパゲティと納豆を混ぜ込んだ味と錯覚するのではないだろうか。

 小生も幼児は徳島で育ったこともあるが、幸い父母ともに東京生活が長かったため、
このスサマジイ雑煮ではなく、正しい雑煮を食って育ったので、これは初体験であった。

二回目からは猛妻に頼んで、小生だけは別鍋で雑煮を作って貰ったということを正月になるたびに思い出す。
ところで今でも、あの、この世のものとも思えない、白味噌雑煮を食っている地方というか、人はいるのだろうか?
いたら手を上げて貰いたい。



010101 初詣

 別にトラウマではないが、神仏は嫌いである。
言い方がキツイとすれば言い直して、一切頼りにしないことにしている。なぜかは自分でも分からないが、頑なまでに拒絶しているのだ。

もちろんだからといって、敬虔なクリスチャンや清廉な仏教徒を尊敬しないというわけではないから誤解しないで貰いたい。
信仰を持っている多くの人が、良質の人格者であるということは十分に認めているし、
彼らのことは尊敬しているし、仲良くもして頂いている。別問題である。

したがって初詣なるものにも参拝目的では行ったことがない。
大晦日には近所の氷川神社かたまには遠出ということもなくはないが、あくまでも散歩か気が向いたらビデオか写真撮影が目的であり、
柏手を打つのはおろか、五円たりといえども賽銭を寄進したことはない。

 初詣の代わりに出来れば元旦、無理でも三が日の間には必ず会社に顔を出す。創設以来二十数年間、一度も欠かしていない。
いうなればこれが小生の初詣である。

 今日も無人野を行くがごとくの青梅街道を飛ばしていつもの半分の30分で会社着。
主目的は大連休の合間の様子見であるが、はちきれそうになっている郵便受けから新聞を取り出し、到着している賀状を社ダチごとに仕分けし、
自分の昨日までの一年分の日誌を社のレーザープリンタを拝借してアウトプットし、製本して帰って来る。それだけである。

帰りに戸締りを確認してから、よく元体育系とおぼしき連中がスポーツジムのプールの出口でやるように(小生はやらないが)
ガランとした社のフロアに向かって最敬礼して「今年もよろしく」とつぶやいて来るのだ。
神仏に言っているのではなく、いつもはそのスペースを駆け回っている社ダチ達に対して言っているのだ。

これが小生の専売特許の仕事の筈であったのだが、どうもこの四〜五年、様子がおかしいのだ。
あるべき筈のない日付の新聞や郵便物が会議テーブルの上に整理されて並べられているのだ。
年始早々納入の報告書の仕上げで出社したのであろう。誰だか分からないし、誰でもよい。

「ニャロメ、これは俺の仕事なんだから邪魔するな」と言ってやりたい。
でもやはり、嬉しいのだ。