迷  走  録


一旦自分の口から飛び出してしまったコトバには責任を持たなければならない。それは既に社会に向けて発信されてしまったのである。

ましてそれが確実な記録として残る「書く」ということにおいてはなおのことである。

自分に確たる思想があるわけではないし、生き方の方向が定まっているわけでもない。だからコトバを発することは恐いし、書くことはもっと恐い。

自身で振り返ってみても矛盾に満ち満ちているので・・・。

しかし、だからといって考えることを止めるわけにはいかない。瞑想することを放棄することは出来ない。

たとえ、迷走でも良い。口から発することによって、書くことによって、多少なりとも自らを律することが出来るのだとすれば。

自らを律する意味でも「毎日更新努力」を宣言して、本コンテンツを設置した。    

                                                                       2000年 12月 1日
レジメ 

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020215  いろは歌

ダチの三五郎さんからの頂きネタである。否、正確には許可を得たわけではなく無断借用だから分捕りネタというべきかも知れない。でも彼は気前が良いから大丈夫なのだ。

突然ダチの三五郎さんといっても誰のことか分からないだろうから、本題に入る前に彼のプロフィルを紹介しよう。まあ小生のBBSにもちょくちょくご登場頂いているので、大体のご想像はつくかと思う。
頭テカテカのオジサンである。ただしツルッ禿ではない。バーコードというには寂しいが、少しだけ髪の毛が頑張ってへばりついている。

小生は良く言われる。「口の悪さもほどほどにしろ」 とか 「冗談は相手を見て言え」 とか。
事実相手構わずの軽口によって、痛い目に会ったことが何度もあるが、一向に懲りない。


でも彼は大丈夫。小生が大真面目でハゲとかマブシイとか言っても、彼の方は勝手にそれを冗談だと受け止めてしまうほどの冗談の塊人間なのだ。コッチは心底真面目に叫んでいるのに。

大手出版社の編集者であり、博学の士である。でもそれだけの人間は他にもゴマンといる。そんなことだけではダチにはならない。
もとはと言えばここで度々紹介している「肉弾掲示板」の創設メンバーの一人であり、そこから派生した、年に一度の大囲碁大会の幹事長である。


肉弾掲示板開催の折には、寝ていない時にはコックとして絶妙の腕を振るう。そして寝ていない時には壮大な雑学博士振りを発揮する。
寝ていない時には・・・と断ったのは、大抵の場合は大酒をかっくらってへべれけに酔って、大鼾をかいて引っ繰り返っているからだ。

そういえば 「ヘベレケの語源を知っているか?」 などという難問を持ち出して、この話題だけで十五分も座を持たせたのも彼だった。とにかく分からないことがあれば彼に聞けば何でも分かる。仮に分からないことがあったとしても、すぐに調べてくれる。愉快で冗談の塊で、時には凄く真摯な、ハゲのオジサンである。 寝ていない時は・・・。

その三五郎さんが面白い「いろは歌」なるものを教えてくれた。西行法師の 「色は匂へど・・・」 は日本人なら誰でも知っているが、近年になって他にもチャレンジした人がいるとは知らなかった。

ひとつは、黒岩涙香が「万朝報」で募集した新いろは歌の一席で作者は坂本某という人だったと記憶しているそうだが

鳥啼く聲す夢醒ませ 見よ明け渡る東を 空色映えて沖つ辺に 帆船群れゐぬ靄の中』
とりなくこゑす ゆめさませ みよあけわたる ひんがしを そらいろはえて おきつべに ほぶねむれゐぬ もやのうち

もうひとつは津和野出身の画家、安野光雅氏のもので「津和野いろは歌」として知られる

夢に津和野を思ほえば 見よ城跡へ薄煙 泣く子寝入るや鷺舞ふ日 遠雷それて風立ちぬ』
ゆめにつわのを おもほへば みよしろあとへ うすけむり なくこねいるや さぎまふひ ゑんらゐそれて かぜたちぬ

世の中、頭の良い人がいるもんだ。ひまに任せてプリントアウトして、二十分ほどもかけてイロハを順番に塗り潰していったが、確かに揃っている。
しかも両方とも「ん」まで入っているのだから、西行法師の「酔ひもせず・・・ん」と取ってつけたようなヤツより偉いかもだ。

よし、小生もチャレンジしてみようと思ったが、こちらの方は五分で諦めた。
面白い。覚えておいて損はないだろうから、彼から分捕ったヤツをご紹介した次第。


020214  またまた視線

タイトルを「またまたまた視線」としないで「またまた視線」に留めたのは、多分もう一度だけこのことについて書くと思うからであり、その時のために「またまたまた視線」のタイトルは温存しておかなければならないので「またまた視線」としたのである。

何度もシツコイとお思いかも知れないが、いいのだ。これは自分の記録なのだから・・・とこんな時だけ平素お読み頂いているご恩を忘れて、デカイ態度を取る。

本日出社してパソを開いてメールをチェックしたらその中の一通。東京某市の市会議員先生からである。といっても小物議員ではなく、もう何期も歴任してその市の市会議員の中でも要職に着いていられる方である。遠からぬ将来に市長選に打って出られるだろうし、その節は当選濃厚と期待している。

二十年ほど前、わが社が駆け出しの頃は彼も大手の広告代理店の勤め人で、仕事の上では随分お世話になったし、頻繁にお目にかかっていた方である。その彼が突然の変身で市議選に打って出られるということを聞いた時は慌てた。しかしわが社のために、彼の社内にキチンとルートを残してくださったし、彼自身も初立候補で初当選。現在議員生活二十年という方である。

議員になられてから・・・特に近年要職につかれてからは多忙を極めていらっしゃるために、賀状の交換程度で、直接お目にかかるのは年に一度あるかないかになってしまった。

その彼からのメールであるから何事かと思って驚いた。今までメールを差し上げたこともないし頂いたのも今朝の突然が初めてである。「拝見しました」のタイトル。要約するとこうだ。
仕事柄JALには毎月のように乗る。噂で小生の「視線」のことを知っていたので毎月チェックしているが、先月も今月も他の人のエッセーだった。従って今回JALに乗った際にスチュアデスを捉まえて聞いて下さったそうだ。


そしたら調べてくれて 「掲載は三月号ですがホームページに載っています」 と教えられて昨日帰宅して早速覗いてくださったそうだ。プリントアウトしてご夫婦で読んでいただいた上で、お褒めの言葉をメールで・・・というワケである。

しかし?である。「零細企業の哀しい社長」 の 「53 視線が定まらない」 に書いたが、編集氏は確かに「HPには近日中に掲載」と言ったので発表ページをお気に入りに登録してちょいちょいチェックしていた。何時までたっても二〇〇〇年度の第一回分が掲載されているだけで、第二回分の発表には切り替わっていない。しかるに彼は読んだという。

慌てて「お気に入り」を開いたがやはり更新されていないではないか。発表に直接リンクの「お気に入り」からではなく、もう一度JALのトップページに戻り追いかけてみた。
実に迷路のように複雑怪奇で下手糞な構成のHPである。といってもコンテンツがあり過ぎるから仕方がないのだろうが・・・。


ということでやっと発見したのが ココ である。
もう自分の原稿は暗記するほど読んでいるので興味は浅田次郎氏の講評だったが、うん、なかなか過分なお褒めのコトバである。


しかし困った。丁度いま彼の新作 「オー!マイ!ガアッ!」 を読んでいる所だ。
間もなく読了だが我が書評欄に×は確定的なのだ。 非常に×がつけにくい状況になってきた。


それから 「目線はダメ視線に」 「租界はまずい」 「スラムはとんでもない」 と細かいことを言ってきたクセに、もしこのまま印刷されるのだとすれば一箇所とんでもない誤植があるではないか。 お気づきだろうか?
今から電話して見てももう印刷は上がってしまっているだろう。
  まあ、オーストラリアも行って来てしまったことだし・・・。


020213  聞いてどうする

1.小泉首相は「聖域無き構造改革」を実現できると思いますか

2.年間国債発行額を三十兆円以下に抑える小泉首相の方針をどう考えますか
3.金融機関への公的資金の再注入をどう考えますか
4.景気の先行きをどう見ていますか

5.雇用の不安を感じますか
6.田中真紀子外相の更迭をどう考えますか

「日経新聞」が全国三千人の成人男女に「電話」で行った世論調査の項目の中のほんの一部である。
上記の項目については基本的には「イエス」か「ノー」か「分からない」かの回答である。

「イエス」が何%で「ノー」が何%、それを男女別や年代別に見るとどうだから・・・これはすなわち・・・という観点からの日径としての分析レポートを書いている。
上記各設問に対して「分からない」と回答した者はいずれも一ケタ%であり、どの項目についても明確な「イエス」「ノー」の回答となっている。

それはそうだろう。もし小生の所に電話がかかってきても「分からない」とは答えにくい。
正直に「分からない」とは答えずに偉そうに「イエス」か「ノー」を回答するだろう。場合によっては一票いくらの世界で働いている電話調査員の迷惑も顧みず、長々と論評(?)をしゃべりまくるかも知れない。

ま、このうち4.5.6.の項目については「酒の席」でも話題にしていることであり、ムードとしてのイエス・ノーは回答できるかも知れないが、これは果たして「世論」なのだろうか?
どう考えてもこれは「論」などではなく、世間の個々人がこれらのことを 「どう受け止めているか」 という 「意識の実態調査」 であるに過ぎない。

1.2.3.については、明確な回答が出てくれば「世論」と判定して良いのかも知れない。しかし「分からない」の回答が一ケタ%であるということがどうしても分からない。

「聖域なき構造改革」「国債発行額三十兆円以下」「公的資金の再注入」。
具体的にどういうことなのか、分かっての回答なのだろうか。それらのことについて良く考えている人達の回答なのだろうか。

別に自分が不勉強だから・・・自分が分からないから・・・世の中の人も自分同様な筈だと強弁する心算ではないが、しかしそれにしても・・・の数字である。

自分には分からないから・・・自分の領域は他のことにあるから・・・そういうことを考えて貰うために、そういう勉強をしている人、そういうことが分かっていそうな人を選挙で選んでいるのではないのか。

もちろん世論調査を全面的に否定する心算はないが、行き過ぎて世論調査を大上段に振りかざすと、ソクラテス言うところの衆愚政治に陥る可能性がある。

日経に限らず、いまマスコミが行っている「世論調査」なるものは、情報操作をやりやすくするための隠れ蓑ではないのか・・・と考えるのはうがち過ぎだろうか。

われわれマーケティングリサーチに携わるもの、くれぐれも自戒が必要である。調査対象者の分かりやすいテーマについて、分かりやすい言葉を使って、分かりやすい質問文にして展開しよう。何でもかんでも「聞けば良い」というものではない。
聞けば必ず答えは返って来てしまうのだ。非常にあやふやな、商品生命に関わるような危険な答えが。


020212  誕生プレゼント

本日は火曜日。「どん」は定休日である。夕食を取りながらさて、今夜はどうやって時間を潰すかと考えていた八時前、玄関のチャイムがピンポーン。

こんな時間に誰だ。まさかセールスでもあるまいにと思っていたら、インターフォンを通じての 「どなたですかあ」の猛妻の声に続いて「私で〜す」の声。

「どん」のママではないか。ナンダナンダと思っているところへ玄関の錠を開ける音。ママが乱入してきた。荷物を抱えている。
「遅くなってごめ〜ん。お誕生日オメデトウ」。

ヤッホー、プレゼントである。恒例の野球帽である。といってもそんじょそこらのものではなく、小生にはサッパリ分からないがブランドものである。猫に小判かも知れないが、猫だって小判が嬉しいこともある。

野球帽のことはいつかここに書いたが、還暦の時の真っ赤な野球帽を第一帽として、毎年庇の裏に西暦年号を記して頂戴している。したがって今回のヤツには02と書いて頂いた。

この野球帽、還暦第一帽以来、本日が第六帽。毎日着用して行くものは別として、本箱の上に行儀良く積み重ねられている。本来であればこれで本箱の上には五重の帽が鎮座まします筈なのだが、先日書いたように昨年十一月に一挙にふたつを紛失してしまったというか、取りに引き返せない所に忘れて来てしまったのだ。ひとつは信州の蕎麦屋に。そしてもうひとつはゴールドコーストのワーナームービースタジオのボートの中に。

従ってママからのプレゼントで現存する野球帽は今日のを入れて四帽目ということになる。猛妻プレゼントの分を併せて六帽である。
「そんなに野球帽ばかり集めてどうするんだ」 という声もあるかも知れないが、別にコレクタではない。ただ毎年違うものというのは選ぶ人が 「今年は何にしようか」 と思って悩んでしまうだろうとの配慮から、考えなくて済むようにしたオネダリの心算だったのだが、結果的には激歩を日課とする小生にとって非常に実用的であり、かつもっとも嬉しいプレゼントになったのである。

今度こそ無くさないように気をつけなければと思うのだが、実は昨日もジムの帰途のラーメン屋でテーブルの下に忘れてしまった。途中で気がついて取りに戻ったので事なきを得たが、貰った時にこんなに嬉しいのだから、やはり被って出掛ける度にこの嬉しさを反芻しなければダメだ。

被るという行為にマンネリになっているためか、或いは無意識のうちに 「無くしてもお代りがいくらでもある」 と思っているのか。
しかしその年のママの愛情はその年のものなのだから・・・自戒である。

昨夜の伊豆の旅館のUPといい、今夜のこの稿といい、何だか誕生プレゼントのことばかりでいかにも賤しいようだが、そうではなく感謝の気持を無心に叩いているだけである。そういえば昨日は娘のプレゼントのウィスキーも机の上に乗っていた。

別にまだ頂戴していない方への催促の心算なんかは、少ししかない。しかしそれにしても重い。
彼女らの純粋な愛情にどうやって応えれば良いのだろうか。恥を晒すようだが白状すると若い頃は全く女性にモテナカッタのだ。小生が若い頃の女性というのはメンクイではなかったのだろうか。


しかるにこの年になって、小生の周囲に俄かに女性達が群がるようになった。このままの状態で若い頃にタイムトリップできたらどんなにか幸せだろう。誕生日が遡って欲しい。

そうそう、アレ? しかしそういえば猛妻は未だに何も寄越さないぞ。


020211  嬉しいじゃないか

美女ダチのおごりの豪華夕食舟盛!!満腹の腹をさすって部屋に帰ろうとしたら「ちょっと待て」。何事かと思ったら、宿に特注してくれてあった誕生ケーキが登場したのだ。

道中「今日が誕生日」などと一言も言っていないのに大分前に言ったのを覚えてくれていたのだ。そして東京モーターショー会場の売り場で探したけど無かった電灯付きのキーホルダーのプレゼントまで。

味なことをやってくれるじゃないか。嬉しいじゃないか。もしかしたら・・・と思わぬでもないが、極めて残念である。
何分にも四十年連れ添った妻子がいるのだ。切歯扼腕しながらケーキに齧りついたのだった。

020210  またもや伊豆無銭旅行

昨年女四人に囲まれてこの河津桜をみに来たのが「桜祭り」の最終日。三月の十二日だったから、今回はほぼ一ヶ月早い訪問である。

奇しくも本日が「桜祭り」の初日。昨年はほとんど散ってしまった葉桜の鑑賞だったが、今年は三分咲きといったところか。なかなか真っ只中といううまい具合には行かないが、もとより小生、花に興味があるわけではない。


なんと言っても伊豆、花より団子ならぬ花より新鮮な魚である。昨年は猛妻と娘、それに大阪と徳島から出て来た猛妻の妹二人、女四人に囲まれての旅であったが、今年のメンバーは例の昨年末の「東京モーターショー」で奮闘したメンバー。ちょっと遅い打ち上げの旅である。


若い社ダチが二人、それにあの時のクライアント兼ダチの美女という組み合わせでの一泊旅行である。昨年の宿泊は猛妻がスーパーの特等で当てた無料宿泊券。今年の宿泊は何とクライアントの奢りである。
どうやら小生の頭の中には「伊豆宿泊=無料」という観念が住み着いた。
。三月の十二日だっ

020209  仲良し四人組

徳島から東京に出て来て阿佐ヶ谷の中学校に転校したのは一年生の三学期初日からであった。同じ日に奈良からの転校生小田と一緒に教壇の前で紹介された。

小田とは同じ転校生同士ということで、その日から仲良くなったが、生れたときからの阿佐ヶ谷育ちということで仲の良かった島崎と森の二人が合流してきた。二年生になっても三年生になってもクラスの編成替えというのは無かったため、爾来クラス中というよりは学年中で評判の仲良し四人組となって中学時代の二年間強を、文字通り金魚の糞のような形で過ごした。

高校は我々の二年前から男女共学が導入されたばかりで、まだ男子校、女子高という名残が色濃く残っている中、小生と森は同じ男子校に進学、小田は女子高に、島崎は商業高校へと道を異にしたが、それぞれ自宅は近いということと、小生と森が同じ高校ということも手伝って日曜日を中心に月の三分の一位を一緒に遊んで過ごした。

高校時代は百人一首に凝り、夏休みなどは殆ど毎日、母子家庭で小生一人しかいないバラックの我が家でパンツ一丁で興じていた。愉快な罰ゲームをした。

痛くないように(ったって痛いが)ペンチの先に真綿を巻いて輪ゴムで固定する。一番負けたヤツはパンツを脱いで立ち上がる。一番勝ったヤツがチンポコの先を改良ペンチで挟んで思い切り引っ張る。残ったヤツが糸を当てて長さを計り記録する。その日の勝負が終わった時にトータルの長さを計算して、一番短かった(=負けた回数の少ない)ヤツが一番長かったヤツのを引っ張ってその日のメインイベントとしていた。ただし接戦勝負の時はミリ単位の争い。

一度小生が手加減を忘れて森のを引っ張った時、痛さのあまりに突然彼が涙を噴出させて思い切りビンタを食らったことがある。あの時のほっぺたの痛さの記憶もさることながら、それよりはあの日々以来の後遺症が残っているような違和感を未だに持ち続けている。

高校卒業後は小生と島崎は就職、小田と森は進学と、それぞれ別の進路と別の交際範囲が出来た。したがって四人だけで集まっていたのはこの高校時代が最後である。しばらくの間中学の同窓会で一同に会することはあったが、四人だけということではないし、その中学の同窓会ももう長年開かれていない。

ただどういう組み合わせであるかは別にして、またそれが二年に一回であるか三年に一回であるかは別にして、一対一での付き合いというのは保たれていた。特に森とは、小生が幹事をしている高校同窓会で年に一度は顔を合わせるし、小田とはその後お互いに転居を繰り返しているので全く偶然ではあるが現在の住まいが驚くほど近い。といっても年に一度顔を合わせる程度だが。島崎は小生の会社設立時に員数合わせのための名目役員になって貰ったことがある。

昨年末近所の公園でバッタリと小田に会った時に「久しぶり(といってもほぼ五十年振り)に四人で会おう。セッティングしてくれ」ということになった。

ということで一昨日の夜、新宿の居酒屋に集まった。小生以外の三人は悠々自適の年金生活者であり、小生だけが窮々たる賃金生活者である。なぜか三人が背広・ネクタイで小生だけがジーパンにリュックの姿だった。

二次会ではカラオケボックスに引っ張り込まれた。
ハゲと白髪が声を張り上げて下手糞な歌をガナルのに辟易しながら、キョロキョロと引っ張る道具を探したが、適当なものがなかった。
何とも甘酸っぱくも気恥ずかしい一夜であった。



020208  今日から高齢者

『月日は百代の過客にして、行きかふ年も又旅人也。』 またその旅人が訪れて来た。
六十五回目の誕生日である。すなわち特別の誕生日である。今日から国家認定の「高齢者」の仲間入りである。オカミが規定する、押しも押されもせぬ立派な高齢者なのである。

毎年々々自分史の区切りとしていくつかのイベントがあるが、新年がその最たるものであるということには異論があるまい。毎年年頭には何となく「気分一新」というムードになり「今年こそは」と思ったりするのだ。しかしこれは「自分だけ」ということではなく、日本中の人間が、或いは世界中の人間が一斉にイチニノサンでそう感じるのである。

その点、誕生日というのは「同じ誕生日の人間もゴマンといるではないか」というツッコミを抜きにすれば、自分固有の特別の日である。この日を中心に大連休というわけにはいかないために、ムードが盛り上がらないだけの話だ。

そしてこの自分固有の歴史、誕生日というヤツは誰にでも公平に、年に一度は訪れてくるが、その中でも特別の誕生日というヤツが一生のうちに何度か訪れる。

二十歳の誕生日がそうであろう。半世紀生きて来たという証としての五十歳の誕生日もまた然りである。そして六十歳の還暦というヤツがある。続いて本日の「高齢者」認定の六十五歳である。この後の喜寿とか米寿とかいうヤツは、社会とはリンクしない単なる祝い事としてのイメージしかないし、自分がそこまで生きる予定がないと思うとあまり関心もない。

本日からは年金生活者となるわけであるが、ボーダーラインすれすれ最後の正規年金受領者と思うと、後から続く人達、特に若い人達に申し訳ないとの思いがないわけではないが、自分が四十七年の長きに渉って積み立てて来た厚生年金の額との比較でいえば不満も残る。
「厚生年金返戻し金」という名前ではなく「老齢年金」というネーミングも気に食わない。

まあしかし金の問題も去ることながら、高齢者の仲間入りをさせて頂いたのを機にここらで自分の精神の備蓄を振り返って整理する必要があるだろう。

二十歳の頃に耽読した芥川の作品に「老年」という短編があった。その後再読したわけではないので記憶の話であるが、ノートにこう書き留めたのを覚えている。「この時すでに芥川は死を覚悟していたのではないか。彼は死ということは恐れていなかった。彼が恐れていたのは生き永らえた後に訪れる老醜だったのに違いない」と。

ハードボイルドファンと化した自分が彼の固い小説を再読する気力はないが、いま再読したら果たしてどう捉えるだろうか、ということに興味はある。

その芥川が恐れていた老醜の域に入ったということなのだろうか。なーに、まだまだという自分がいる一方において、何しろオカミからそう認定されてしまったのだから・・・という気弱な自分がいる。いよいよ第二の人生と張り切る自分がいる対極に、そろそろ草臥れたなモウイイカと思う自分がいる。

まあ、あまり肩肘張らずにある程度は「老」を受け入れよう。静かで落ち着いた、叡智を秘めた「老」を目指そう。ったって今日から急に変われるわけはないのだから、多分明日からもオッチョコチョイでバカ丸出しの自分がいるのだとは思うが。
しかしオカミから押し付けられた「老」だけは受け入れるにしても「醜」だけは断固として拒否し続ける覚悟である。


皆さん、今後ともよろしくお願いします。 「誕生日おめでとう」。


020207  支持率急落

昨年四月、九十%という異常な支持率を得て発足した小泉内閣というか小泉首相であるが、その支持率は一挙に五十%を割り込んだ。

「迷走緑」の昨年四月二十五日に書いている。「これは支持率なんかではない。単なる人気投票だ」と。
そして小生自身は「支持するかしないか分からない」と無責任な態度をとった後、結語でこう締めている。

「支持するかしないか」・・・「支持」。これは人間の根幹に関わる、尊厳に関わる重々しい響きを持った言葉なのである。コトバを生活の糧としているマスコミたるもの、もっとコトバを大切に慎重に扱って貰いたいものだ。

要するに 「人気投票と支持率をいっしょくたにするな、支持率なんていうコトバを軽々しく使うな」 という趣旨のことである。
同じく五月二十五日にしつこく同じ趣旨のことを書いている。依然として 「支持するとは言わないが、少なくとも期待はしている」と。

今の気持ちも変わらない。支持するかしないかと言われても、無責任ではなく責任を持って 「分からない」 のである。
だって小生は政治や政策については無知であるし彼のことを直接知らないのだ。

街角でマイクを差し出された、一見小生以上に政治や政策に無関心そうなおじさんやOLが、いっぱしの評論家気取りで支持や非支持を軽々しく口に出すのが信じられないし、一朝事あるとマイク片手に街頭に飛び出して行くマスコミもどうかと思う。
「百人に聞きました」 というのが民主的なのだと思っているのだろうか。
まああまり言うと民主主義そのものを、選挙制度そのものを批判しているように誤解されるかもしれない。その心算はさらさらない。


小泉が首相になってから、身の回りに良いことは何もない。いやなこと、暗いことばかりだ。しかしこれは全てとはいえないまでも小泉の責任に帰するものではない。運命論的に言えば 「悪い時に首相になってしまった」 というべきだろうか。

にもかかわらず、五十%の支持率があるということは、少なくとも付和雷同の飾りに過ぎなかった人気投票分が落ちたということに他ならない。マスコミいう所の「支持率」はまだもう少し落ちるのかも知れないが、それでも歴代首相に比べれば高い水準を維持しているし、その時の数値は、少なくとも小生よりは政治・政策の本質を知っている人達の、本当の意味での支持であるのかも知れない。

問題は今がどうかということではなく、彼が何をやろうとしているか、何が出来るかということである。マスコミ報道を通じてしか知ることの出来ない我々、前述五月に書いたように 「素直にエールを送ることにしよう」 としか言いようがない。

小生自身、依然として支持か非支持かということは分からない。だってそこまで踏み込んで彼の近くにいるわけではないのだ。
どうか街頭で小生にマイクを突きつけるのだけは止めて欲しい。「分かりません」と答えて、「あのば〜か」と思われることは避けたい。もっともそう答えたとしたら、まず間違いなく編集カットになるだろうが。

彼がやろうとしていることには賛成。出来るか出来ないか、手腕を拝見してから支持か非支持かの態度をハッキリさせたいのだが、あまりにも緊急事態の発生が多すぎて、彼は未だに行動の端緒につくことさえ出来ないでいる。


020206  縦書きへの郷愁

「零細企業の哀しい社長」や「迷走緑」をお読み頂いている方はお気づきと思う。数字は殆どが漢数字である。「一九七五年」等の記述はまだしもとしても「四十五%」等の記述には違和感を覚えている方も多いのではないかと思う。

打つ方だって大変なのだ。イチと叩いて変換してキュウと叩いて変換するという手間をかけている。なぜって、HP上では横書きにせざるを得ないが、そもそもが「文章を縦書きで書きたい」というのがコンテンツ立上げの直接の動機なのだ。

どこかに提出する正式の履歴は「高校卒」でストップしている。一応恥ずかしくない高校を卒業しているからここでストップにしているのだが、ホントは某大学の夜間部を卒業している。

高卒後すぐに「走り使いの坊や」として就職が内定した大手広告代理店の支店長に呼ばれ 「本当に当社で働きたいなら夜間でも良いから大学を出ろ」 と言われたからだ。そんなこと突然言われたってその時は殆どの大学は願書を締め切っていたし、高校時代はバイトバイトで受験勉強どころではなかった。今から願書を出せる学校で、英語と数学の試験の無い学校となると、自ずから受験先は限定された。国語だけは勉強をしていなくても自信があった。

そして駆け込み受験ではあったが合格した。「国文学科」。まあ四年間趣味と実益を兼ねて学校に行けるからイイカと思って支店長に報告に行ったらコッピドク叱られた。 「なぜ商科を選ばなかった。国文学なんてクソの役にも立たない」と。
それで残業残業で学校なんて殆ど行かせて貰えなかった。代返代返でしのいでどうにかこうにか卒業はした。


威張れない大学のクソの役にも立たない国文学科。しかも殆ど学校には通えなかったのだからと思って、未だに「高卒」で通しているが、「高卒」は事実なのだからこれは履歴詐称にはならない。

ただし卒業論文だけは代返は効かないし、これだけはキッチリと仕上げたかった。家には勉学スペースがなかったので、以前ここの「懐道を行く」シリーズに書いた中野の喫茶店「クラシック」に通ってコツコツと書いた。そして仕上げは強引といってもよい方法で一週間ほど休暇を取り、知り合いの勿来の寺に閉じこもって仕上げた。「或る阿呆の一生(芥川)考」。

教授の評点も良かったが、何よりも自分で満足の出来た仕上がりだったのが嬉しかった。当時はコピーなどというものがなかったので、手元に控が無いのが残念である。

卒業後は本当は新聞社か雑誌社の編集にでも入りたかったが、ヘナチョコ大学の夜間の国文科では無理な相談。せめてその代理店でコピーライターへの道をと願ったが、例の「自転車泥棒」事件で配属されたのが市場調査部。職場は転々としたが現在に至っている。

企画書横書き。レポート横書き。議事録横書き。帳簿横書き。メモまで横書き。嗚呼! 文字を縦に書きたい。縦に書きたい!!

ということで「零細企業の哀しい社長」と「迷走緑」はワープロで縦書きで書いているのである。
HPにUPする時に横書きに変換して乗せている。だから漢数字なのだ。

暇をみてプリントアウトして、自家製本判として保存しようと思ってズルズルと来てしまった。
「迷走緑」だけでもA四一枚で四十字×四十行、千六百字が一日分。ということは既に四百三十枚。家のプリンタではとてもじゃないからそのうち会社でと思っていた。

先日の会議で部長の通達。 「私用コピーが多い。今後はとっても良いが一枚十円払え」。
ぎょへー、遅かった。 最終推敲用と完成用で最低二部必要として八千六百円かあ。 それだけの値打ちがあるのだろうか。



020205  グローバル化

「テロに対する国際的な連携がうまくいっている今、連携を貧困との闘いに活用すべきだ。テロと貧困は双子の関係だから」(フィリピンのアロヨ大統領)。「我々は憤激しかしらない人々を抱えている。これは危険だ。テロリズムの温床になる」(ヨルダンのラニア王妃)。ニューヨークで開かれた世界経済フォーラム年次総会で、二人の女性指導者はこう訴えた。(中略)パウエル米国務長官も「貧困や希望の喪失とも戦わなければならない」と指摘するが、ブッシュ米大統領は一般教書演説でグローバル化の負の側面には触れなかった。(中略)

仏社会党のジョスパン首相は、「グローバル化は富を生むが、不公平も増す」と強調。保守のシラク大統領は「市場が全てではない。国の独自性を保て」と言う。経済の一体化が進んでも政治は国単位で動く。「世界の悪を米国が裁く」といったブッシュ大統領の発言は、米国内では受けるのだろうが、米国中心の発想が強すぎると、同盟国も違和感を隠せなくなる。

四日の日経コラム「春秋」からのいささか長い引用である。

猫も杓子も「グローバル・グローバル化♪」と叫び出してから久しい。もうかれこれ二十年位前に火の付いた言葉だろうか。この言葉を発しなければ時代遅れのようなアセリを感じたのは小生だけではあるまい。

そしてこの言葉はいまや完全に企業用語としても定着している。これを読んで下さっている方の中にも、多分今年の年頭の社長訓示の中に「グローバル化」の言葉を聞いた方は多いのではないかと思う。ゴロがよく、なんとなく分かるような気がする勇壮なフレーズである。

その二十年も昔のことであるが、小生最初にこの言葉を中堅企業の社長から聞いた時は、日ごろの勉強不足と特に横文字に弱いということも手伝って、真っ先に連想したのは戦時中の「一億火の玉」の標語であり、続いて連想したのが六十年安保時に国会周辺を練り歩きながら歌った「立て万国の労働者」の労働歌であった。

しかし勿論件の社長にそんなことは言わなかった。したり顔をして 「そうですね、まさにグローバル化の時代です」 と言って大きく頷いた喫茶店の一隅の風景のことを覚えている。

その後「グローバル化」の言葉が蔓延するにつれて、「待てよ、恐いものがあるぞ」 と考え出した。
狭義でいえば先日書いた 「個人情報保護法案」 ともリンクするのではないだろうか。

基本にあるのは悪く言えば「十把一絡げ」「何でもかんでも」ということになるが、ではそれを「絡げる」のは誰なのか。
「何でも」と「かんでも」を選別するのは誰なのか。
「グローバル化」と「ファッショ化」というのはどこがどう違うのか。こんな疑問に突き当たってしまう。


「グローバル化」を推進するからには、そこには推進の中心が存在する。グローバル化に逆らうゴミは排除して行く必要があるだろう。
グローバル化達成のためには、相容れない文化や個性を踏みにじっていかなければならないのだろう。


「世界の悪を米国が裁く」。 背筋が寒くなる言葉として受け止めたのは小生だけではあるまい。
うんとミニマムに考えれば、小生の存在はグローバルという観点から、そして米国という観点から、「悪」ではないという保証はない。
というよりは、強大な権力によって 「お前の存在は悪だ」 と言われれば抗いようがないのだ。


勿論ホントに対面することはないが、夢でぐらいはブッシュが現われて 「お前を裁く」 というかもしれない。
仕方がない、お裁きを待とう。


020204  掲示板開設のご挨拶

「厳寒の候、皆様におかれましてはますますご健勝のこととお慶び申し上げます。さて私儀、この度皆様にお世話になっております自分のホームページにリンクさせて、BBS(掲示板)を立ち上げさせて頂きました。何分にも不慣れな未熟者ではございますが、精一杯家主としての責任を果たさせて頂く所存です。何卒皆々様のご来臨の栄を賜りたく、伏してお願い申し上げます。」 とまあ、封書のお手紙で書けばこうなって、ツバで切手を貼って投函する。 

これが電子メールになると 「毎度〜っ。お待たせしました。掲示板を立ち上げたから遊びに来てね〜。待ってるよ〜ん」 となる。
言葉使いだけじゃない、電子メールというヤツは精神的にも無防備になるのだ。
例えばラブレター。大昔は夜中に涙を流しながらラブレターを書いた。我ながらすごい名文であり十回も読み返して更に涙した。翌朝起きて読み返して歯が浮いて破り捨てたという経験が何度あるだろうか。

今なら事情が違う。夜中の二時だろうが三時だろうが、叩き終った名文ラブレターを気の変わらないうちにプチッ。相手も起きていたりして間髪を入れずに返信。 「バ〜カ。良いお友達でいましょ」。 ことほどさように電子メールというヤツは精神的に無防備になる。非常に優れたところである反面、自らをかなり厳しく律しないと恐いところでもある。

これがBBSともなるとより一層である。「ガチョーン!!掲示板オープン。来て来て来て」 で用が足りる。一度に多数の人間が参集する板であるから、無防備は倍加される。
それだけに(あまり好きな言葉ではないが他に適当な言葉がない)「開設管理人」の責任は重い。いまですらがこの状況であるのだから、近い将来にはBBSというのは相当な力を持ったコミュニケーションツールとなるのは目に見えているし、そうなれば「開設管理人」はオーバーではなく、ある程度の社会的責任を背負うことになるからだ。


ということで、小生はHPを立ち上げた時からBBSを開設する心算は無かったし、人にもそう言って来た。もっぱら人様のBBSで遊ばせて頂いて来た。しかし小生が直接遊びに行っているBBSはいうにおよばず、覗かせて頂いているだけのBBSも例外なく楽しそうなのは勿論、情報の宝庫なのだ。羨ましさが日に日に募る。

小生の超マイナーなBBSで社会的責任なんてオーバーなことを考えるのは自意識過剰というものだろう。それよりは小生がBBSを開設することによって、小生が参加しているあっちのBBSメンバーやこっちのBBSメンバーがコミュニケーションを持って、友達の輪が広がってくれれば嬉しい。

今週八日に六十五歳の誕生日。限りある余生の中で少しでも楽しみを増やしたいと思って、当日に立ち上げる心算で手元でいろいろ準備をしていた。ところがである。わけも分からずにいろいろいじり回しているうちにふと気づいたらいつの間にか正式にUPされて機能してしまっているのだ。本人が一ヒット目を叩いてご挨拶する前にドカドカッと乱入者どもがいて勝手に騒いでいるではないか。

まあこれがBBSの楽しさである。ジャストご生誕記念とはいかなかったが、まだ良く分からない所が残る未完成のままで立ち上げることにした。

目的は友達の輪を広げて楽しく遊びたい、情報交換をしたい。当然小生も含めてだが、今遊んでいるBBSのホームグランドはキッチリ守って、余裕があれば是非遊びに来て頂きたい。  よろしくお願いします。


020203 羊頭狗肉

我が家から十分のチャリンコ圏内に「羊肉専門レストラン」があるのは知っていた。でも羊肉は不味いので足を運んだことはない。ところが一年半ほど前から、リンク先の「羊肉のなみ方」さんのお世話になってから、羊肉に対する認識は百八十度引っ繰り返った。

猛妻旅行中の折にチャリンコを飛ばした。「マトンのショルダーステーキ」をオーダー。小生がご幼少の砌に食った、まさしく正しい羊肉だった。半分以上も脂身に包まれた肉は歯が立たないという以前にナイフで切れない。二切れ食ってギブアップ。

一所懸命調理してくれたカウンタの中のマスターに悪いので、リュックから電源の入っていない携帯を取り出し演技をした。「なに〜っ!分かった、すぐ行く!!」。
ということなので・・・とマスターに謝って勘定を払って逃げて来た。
しかしだとすれば・・・「なみ方さん」のあの肉って何なのだ?


本当に羊なのか?もしかしたら羊頭狗肉なのかも知れない。いや、そうに違いない。
そういえばこの犬、いかにも美味そうだ。


020202  ネッ川、投票方式にイチャモン

どうなるか見通しのないままに立ち上げた「ネッ川」であるが、どうやら皆様のご協力を得て、第一回は無事に成立した。投句締切間際になっても誰からの投句もなく「こりゃダメかな」と思って諦めかけていたのだが、締切当日になってドカドカッと投句が殺到した。

こちらの作業が集中してしまうので、第二回目にして早くもルールを変更し、毎月の締切日を大幅に前倒しした。現在第二回目の投句受付中で、締切は五日である。後四日しかない。

にもかかわらず、投句者ゼロ名である。初回時と違うのは「こりゃダメかな」とは思っていないということである。もう諦めた。所詮はこのメンバー。締切日がいつかなんてことは関係ないのだ。要するに締切当日を待って、ドカドカッと投げてくるだけなのだ。いっそのこと次回からは締切日など予告せずに、突然「本日締切です」と告示しようかと思う。多分結果は同じだろうし、こっちの精神状態は大いに休まるということになる。おーい、締切は五日だぞ、なんてヤキモキしなくて済むのだ。

閑話休題。今日は締切予告ではなく、前回、すなわち第一回目の投票についてである。威張らせて貰うが、参加メンバーの平均年齢は相当若い。もっと威張らせて貰うがメンバー中の半数以上が女性である。ということは、若い女性が非常に多いということである。そして今の所はいずれも小生のダチであるから当然いずれも美女である。また脱線した。要するに若い美女が非常に多いということ、従って特に男性諸君は熱心に参加しないと万一「ネッ川オフ開催」なんてことになった時に招待してやらないぞ、早く投句しろということである。

もう一度閑話休題。前回、すなわち第一回目の投票についてであった。なかなかセンスの良い句を投げてきた飛び切りの若い美女がいた。ところが結果発表後、待てど暮らせど彼女からの投票がない。たまりかねてメールで催促したら、すぐに返信があった。

「私は投票しません。だって母数が多ければ話は別ですが多分投票者はチョボチョボ。それでもって自分の句に投票してはいけないというのは敵に塩を送るようなもの。自分に不利」。

うーん、ナルホドである。投票は見送って静観した方が自分に有利になる。仕方がないので「こらあっ!遊びだあ」とメールを送り返したら、すぐに「ヘッヘッヘッ」と書いて投票してきたがもうひとつイチャモンがついていた。
「圧倒的に良いと思う句が一句ある。本当はその句に三票を投じたい。でもルールは三句を選んで一票ずつ。一見公平に見えてスゴイ悪平等」。ナルホドナルホドおっしゃる通りである。


これは笑い事では済まされない問題である。小生というか小生の会社は「統計」を生業としている。例えば「次に上げたソフトドリンクの銘柄の中から、あなたの好きな銘柄を三つ選んで下さい」という質問文を作って、その下に三十ぐらいの銘柄名が並んでいたとする。

調査対象者は「仕方なしに」三つを選んで回答してくれるが、本当はモノスゴク好きな銘柄がひとつだけあって後はどうでもよいものの中から無理やり二つを選択したのかも知れない。しかるに集計結果ではそれぞれが等ウェイトで「1」とカウントされてしまうことになる。  

何千サンプルかの調査ならまだしも、百や二百の母数が小さい調査の場合には、これは統計数値としては由々しい問題なのだ。ということで、質問票設計の段階で社内で壮烈に揉めることがあるのを思い出した。てなことを考えさせてくれた美女ダチさん。どうもアリガトウなのだが、貴女が統計学に造詣の深い方だということをスッカリ失念していた。


まあ、投票は当分このままのスタイルで行く。
投票者数が何千名かになって、統計学上からも意味のある数値になることを願うばかりである。


020201  半額マック販売中止

二年前の二月十四日に始まったマックの半額セール。この二月十四日に中止して通常価格に戻すそうだ。通常価格とはいっても二年も前の通常価格、半額が通常価格として定着してしまっているのだから多分抵抗は大きいだろう。
直接の理由は狂牛病と円安による為替差損ということだが、理由はともあれ小生としてはこの英断に拍手を送りたい。

或いは競合企業がここぞとばかりに低価格路線を打ち出してくるかもしれない。そうなれば当分は現在以上の苦戦を強いられるかもしれない。しかしそこでマンモス企業が踏ん張ってくれなくてどうするのだ。どこまで続くの観のあるデフレの進行を、とにかく大企業がストップしてくれないことにはどうしようもないではないか。

不況脱出に政府は絶対にアテにならない。国会も経済とは無関係な所でいたずらに空転を繰り返すばかりだ。例え内閣が代わっても、首相が代わっても、政界の抗争地図が塗り替えられるだけで、不況脱出の構図などは見えるわけがない。
大企業のトップがどう大同団結してくれるか、どういう近未来図を描いてくれるか、不況脱出の唯一の方法なのではないだろうか。

確かに安売りはわれわれ消費者にとっての、ひとつのベネフィットであるには違いない。しかし単純にそのことを喜んでいてよいのだろうか。前にも書いたことであるが、メーカーは消費者ニーズのある良い商品を適正な価格で販売し、適正な利益を手中にする。全てのメーカーがこの方向で足並みを揃えれば、消費者はそれについて行くだけの経済力は持っているはずなのだ。

勿論なんでもかんでも買うというわけではないが、必要なものがリーズナブルな価格で販売されていれば買うことに抵抗はないし、リーズナブルな価格での販売によって、メーカー側でサービスや付加価値の上乗せの余裕ができたすれば、なおのことである。
それでもどうしても安さだけを追求する商品があるとすれば、それは消費者であるわれわれが研究して、電車賃をかけてでもガソリン代をかけてでも、安い商品を売っている所に出かけていけば良いのだ。

繰り返しになるが、メーカーはわれわれの欲しい商品を、われわれが買いたくなるように魅力的に見せて欲しい。その上で、われわれが納得出来る価格で販売して欲しい。出来ることなら上質のサービスや付加価値をつけて欲しい。そしてどうぞ適正な利益を確保して欲しい。その利益を御社の従業員を始めとする社会に還元して欲しい。簡単なことではないか。

しかし、多分そうはいくまい。半額マックの販売中止とともに競合メーカーは歩調を合わせることはせずに、ここぞとばかりに安売り攻勢をかけてくるだろう。な〜に、何といっても一メーカー、日本経済のことよりは自社経済の方が優先なのだ。
大企業としての責任とか誇りとかは言っていられないのだ。日本のトップが、国会がそういう状態なのだから、われわれが同じことをやってなぜ悪い。仰せごもっともというしかない。

小生どうもハンバーガーというヤツは苦手である。マクドナルドは銀座一号店の時からのお付き合いであるが、我が半生でハンバーガーを食ったのは二〜三度あるかないか。しかも自分で店頭に立って金を払ったことは一度もない。

しかし、例え大半が企業事情によるものだとしても、意気に感じて今月中旬以降、一回はハンバーガーを自分で買って、食ってみるのだ。