波乱の生涯 行方貞一(なみかた ていいち)

いつも一攫千金を夢見ていた男。休みも惜しみ稼ぎ、その稼ぎをすべて飲んでしまった男。常にアイデアをもち、ノートに書き込んでいた。そんな貞一。

米沢は上杉家の城下町として大変歴史がある。行方家も、貞一の何代も前の先祖の家系図が上杉家に残っていて詳しいことが書いてあった。行方家が上杉家に仕えたのが寛文九年十一月十三日のことだ。寛文九年とは1669年と言うから三百年以上前から、記録が残っている。時代が時代なら・・・

さて、前置きはここら辺にして、行方貞一をご紹介しよう

大正8年(1919)3月25日 山形県米澤市上花澤信濃町2124番地に幸一、み江の長男として生まれる

大正十年頃 貞一2歳 母み江25歳


昭和八年(1933)三月 米澤市東部尋常高等小学校卒業(貞一右から3番目)

 

 

 

 

 

 

 

 


 

泣きそうな貞一

 

 

 

 

 

 

 

 


服装は、学生服にゴム長靴です。生徒はみな、同じような格好ですから、よほど道路がでこぼこだったのでしょうか?
卒業記念写真集・・四クラスの写真がありました。

なぜか泣きそうな貞一。考えるところでもあったのか。なぜか長靴を履いています。昭和八年というと、昭和四年に始まった世界恐慌が日本を襲い、昭和六年には満州事変がおきました。ドイツではヒトラーが首相となり、日本は第二次世界大戦へ突き進んでいく時代でした。

昭和初期の尋常小学校は、初等科と高等科に分かれていました。初等科は六年、高等科は二年で、今の中学に相当します。小学校とはいえ卒業は現一中校舎でした。その後貞一は置賜農業高等学校へ進学します。その当時、高等学校へはなかなかいけませんでした。いまの大学に匹敵するものだったのです。

昭和12年の冬 1月16日東部尋常高等小学校第2回卒業生同級会
和田屋会場にて 貞一 左端

拡大図 まだ若々しい。貞一十八歳

高等小学校を卒業後、米澤第一中学校、置賜農業高校を卒業、農業會(農協の前身)に入る

養蚕指導

昭和十三年12月16日軍服用に毛皮の増産が叫ばれていた。うさぎ皮のなめし工場において。貞一十九歳

昭和十三年秋甲種合格後入隊前祝いを行う。上の段一番右端

昭和14年貞一出征の日
左奥から
豊子(妹 故人) 次郎(弟) 圭三(弟) 一夫(源四郎氏長男)
手前左から
ふく(調査中) のぶ子(調査中) とし子(調査中) 源四郎(幸一の兄弟 故人) きく(幸一の母) 貞一 みえ(母)

昭和十四年二月貞一の父、幸一わずか四十六歳の若さで死去。喪もあけぬうちに満州牡丹江へ初年兵として出征。貞一左から三番目。目立ちたがりの20歳の若者だった。牡丹江は満州にあり、現ロシアのウラジオストックのあたりである。当時日本は満州を中国より独立させ、占領していた。しかし、諸外国の抑圧もたいへんなものだった。

 

貞一は三年間を満州で戦い、昭和17年に米沢に帰る。米沢に戻ってしばらくは、玉ノ木町(現東1丁目付近)にあった精密機械工場?で軍事教練(戦争のやり方を教える)の教官として過ごしたが、戦況が厳しくなってきた昭和18年召集令状を受け、広島の部隊へ入隊した。19年一月、一時帰宅しているときに祖母きくがなくなり父の死去の際と同じように喪があけぬうちに広島の部隊へ帰っていった。そのとき、同じ部隊で仲良くした友人がいた。郡山の出身で義妹を紹介してもらい、お見合いまでした。貞一の母はいたく気に入った。それが現在の私の母となった。

20年の初夏、広島から部隊は台湾へ転進しました。もう少し遅ければ、広島の原爆の犠牲になるところ。あわやのところでした。

広島の部隊では達筆だったことを認められ、上官のお世話をする役目をしていました。ずいぶんとかわいがられていたようで、世渡り上手だったみたいです。

台湾で終戦を迎え、帰還する船を待つあいだに貞一はマラリアにかかってしまいました。マラリアというのは蚊を媒介にする寄生虫で、高熱が周期的におそってくる恐ろしい病気です。的確な治療をしないと死んでしまいます。戦争中はたくさんの方がマラリアでなくなったそうです。

そのとき、貞一を親身になって看病してくれた人がいました。九州出身の美しい人でした。貞一は献身的な介護をしてくれた彼女を好きになってしまったのです。彼女も若くてかっこいい貞一に惹かれ、いつしか二人は結ばれました。二人は、彼女の実家の九州を経由して、昭和20年の暮れ、たくさんの毛布や砂糖をもって米沢に帰ってきました。

そこで、二人は新しい生活を始めたのです。しかし、幸せな生活は永くは続きませんでした。貞一には許嫁がいました。母も承知の人です。

ましてや、貞一の母は武士の妻、それはそれは厳しい方だったのです。どんなにすばらしい女性でも、時代が許しません。どこの馬の骨かわからない女と、家族から相手にされなくなってしまいました。そして二人はわかれざるをえなくなってしまったのです。どんなにかつらかったでしょう。しかし、貞一はなくなく彼女を生まれ故郷である九州まで送っていったのです。彼女に新しい命が宿っていることも知らず・・・・。

その後、かわいい男の子が生まれました。彼女は貞一の一字をとって貞夫と名付けたのだそうです。私と異母兄弟がこの世にいたことを今回初めて知り大変驚きました。生きていれば今頃55歳、孫もいる年代ではないでしょうか?

20年11月19日失意の貞一は郡山出身の女性と結婚しました。以前見合いをした人で、それが私の母です。なんと身軽なフットワークなのでしょうか。身勝手というか・・・・。

さて、そのころ貞一は闇やをして暮らしていました。闇やというのは、お米などさまざまなものを農家から仕入れてきて都会に行って売りさばく、商社・・いやブローカーのような仕事です。なぜ闇かというとその商品は販売することを禁止されているものがほとんどだったのです。戦争が終わった直後ですから物資は不足している食べ物はない。食料は政府の配給で配られていたです。そんな時代ですから、農家にいってお米を仕入れ、都会に持っていくと高値で飛ぶように売れました。寿司屋にお米を持っていくと仕入れ値の三倍もの一俵(60キロ)1000円で売れたそうです。

公務員の初任給が4000円ぐらい。今の価格でいえば、1俵4万円くらい?ですからずいぶんと羽振りがよくてお酒もたくさん飲みました。浮気もたくさんしたそうです。

しかし、闇やは違法な事です。何回も警察に捕まえられました。そうはいっても、儲かるので、人を雇ってまで闇やを続けました。そうしているうちに昭和23年1月31日長男が生まれました。幸雄と名付けられ、それはそれはかわいい子供でした。

友人、知人はみな貞一を心配し、子供が生まれたのがちょうどよい機会だから、農業會に戻ってくるように勧めました。ようやく貞一は定職に就くかに見えたのです。

農業会に勤めはじめた貞一は早速運転免許を取得して配達の仕事を始めました。その職場ではもちろん一番最初に免許を取ったという時代で、車を使った仕事はたくさんありました。

持ち前の明るさとバイタリティーでがんばった貞一は、だんだん農家から信用してもらえるようになり、肥料や農薬の配達の際に、農家から簡単な用事を頼まれるようになっていった。ちょっとした買い物などですが、なにがしかの報酬をもらっていたようだ。今で言う、アルバイト、いや、農協のトラックを使って小遣い稼ぎをしていたとんでもない職員だったのだ。そのお金はというと、全部飲み代に使ってしまったらしい。しかし、仕事もよくできたようで、37歳の時に、家畜の種付けをする施設が福田町(今のホテル平成の付近)にできたとき、初代所長として働き始めた。

当時13000円程度の給料をもらっていた。そして昭和33年10月あの厳しかった母「みえ」がなくなるとすぐ仕事を退職した。退職金5万円を手にした貞一はすぐさま妻の義兄(戦友でもあり大工でもありました)に頼み自宅を肉屋に改装してしまいました。

昭和33年12月17日羊肉と羊毛を売る専門店として、行方羊肉店は誕生しました。当時の値段は百匁百円つまり四百グラムで百円だったそうです。

肉を食べるという習慣が根付いていない昭和三十年頃、ましてや羊の肉が、市民に受け入れられるわけがありません。店は閑古鳥が鳴いていました。

しかし、貞一はどうも周到な準備をして開店をしたわけではなかったのです。驚いたことに彼は肉をさばく技術を持っていませんでした。しょうがなく、自分が覚えるまで、職人さんを雇って肉をさばいてもらったのです。職人さんの日当は一日300円。1000円も売れれば上等という、わずかな売り上げから300円を払ったのでは儲かるわけがありません。また、冷蔵庫などももちろんありません。肉はどんどん悪くなっていく。家族は貧乏のどん底に落ちていったのです。

その後も貞一は高校時代を過ごした小松のダリア園を思い、米沢にもダリア園を作ろうと、お店の裏にたくさんのダリアを植えたり、結婚式場をやるなどと計画を立てたり、突飛なアイデアをたくさん思いついてノートに記していました。

彼のアイデアはほとんどが実現しなかったけれど、とてもおもしろそうです。その中から、義経焼という焼き肉がうまれ、お店が繁盛したのです。

若いときのお酒の飲み過ぎや、無理な仕事をしたことで、40歳を過ぎてすぐに脳梗塞になり重度の後遺症が残りました。しかし、持ち前の明るさとバイタリティーで生きてきました。晩年は寝たきりになり10年も病院と自宅を往復していましたが、きっと幸せな人生だったでしょう。

それこそ、私たちが一生かかっても経験できないようなことをいくつも経験した。戦争という時代のせいかもしれない。しかし、戦争ということでは片づけられないものすごいエネルギーを感じた。

農協に勤めている頃、同僚と遊びに行っての一コマです。風景からして白布大滝のようです。

農協の仲間と。三輪トラックに乗っているので昭和20年代から30年代の前半らしい。
あの頂上がかけている山は磐梯山でないか?

↓昭和三十三年、み江の実家である椎野家の葬儀で。まだ青年のような貞一。このころ四十歳か。


↑葬儀での拡大写真。


昭和41年。国道十三号、栗子峠が開通した。道路がアスファルト舗装になっている。現在の信濃町を同じ方角から写したものが左です。その変わり様に驚く。写真中央に酒の看板があるが、今はコンビニを経て眼鏡屋になっています。電柱の位置は変わっていません。また、道路正面に山が見えますが、ちょうど義経焼の左側に同じ山が見えます。


昭和四十年代前半と思われる店頭。

栗子峠に見物に行ったところ。この子供が行方正男。小学校の低学年か。二年か三年?四十年とすれば三年生だが。真ん中が貞一。正男が二歳の時に脳梗塞になり、左半身が不自由になってしまった。急に老け込んだようだ。上の写真と7年しか違わない。

続く・・・・いつまで?わからないよ。
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